Carnegie Mellon University

タイ人と日本人の外来宗教についての態度の比較

A Comparison between the Attitudes towards Foreign Religions of the Thai and Japanese People

ガン・チャヤパトラナン
Gunn Chaiyapatranun
Carnegie Mellon University - Japanese Studies

1. はじめに

この文章では、日本とタイの宗教について書きたい。民間信仰を信じているタイ人と神道を信じている日本人は外来宗教についての態度が時代とともにどう変わったか、という質問の答えを探すつもりだ。冬休みにアユタヤ古都の日本人村を訪問したことがあって、日本人とタイ人の関係は宗教的な意味合いがあって、とても興味深いと思っていた。日本とタイは両方とも仏教の国だけど、両国人の宗教的態度と考え方は違う。歴史的に宗教的な寛容度が違って、外来の仏教の取り込み方も違う。その理由を見つけたいのでこのトピックを選んだ。日本とタイの昔の外交に対する考え方は違うから、宗教についての態度も違う。それに伝統的な宗教と考え方は今日の最先端技術の時代との矛盾を感じていて、人々の態度もまた変わっているようだ。

2. 日タイの宗教についての態度

a. 両国の民間信仰にはどのような特徴があるか。

まず、両国にはどのような民間信仰があるか。日本の古来の宗教は神道で、タイの方は「ピー」という民間信仰がある。両方とも聖典や具体的な教えはなく、信者の生活に組み込まれている宗教だ。神道では、自然と神とは一体として認識されていて、祭祀は神と人間を結ぶ具体的作法だ。タイの民間信仰でも自然と祖先を神として崇拝する。例えば、自然で見つけた古木や変な石には強い力のある霊魂が住んでいると信じられていて、そこに鮮やかな布を結んで、祈る。この信仰は自然の現象と関係があるので多神教のヒンズー教と自然に統合された。両方とも自然を強調する多神教だから、自然と神の概念は似ていると思う。それゆえに、両国で神がいない仏教を温々と伝来できた。仏教の無神の概念は二つの信仰と一致しているから。

b. 歴史的に外来宗教についての態度と寛容度はどう違うか。

しかしながら、両国の外来宗教についての態度と寛容度は歴史的に異なっていた。例えば、江戸時代初期の鎖国政策によると、日本人の出入国を禁止し、外国人とキリスト教の信者は多くの差別に直面した。日本政府の独立を維持するために、外国の影響と考え方は厳に禁止された。その結果、日本人の宗教の自由もなくなって、強い宗教心のある日本人のキリシタンは隠れることを余儀なくされた。一時、アユタヤ王国(現タイ)は他の国々ともっと強い外交関係を築き上げたかったので、数回ローマ教皇とかフランスのルイ14世王などに使節を送って、外来の一神教にも寛容だった。その上、戦国時代の浪人とか、江戸幕府時代の隠れキリシタンなど日本から寛容なアユタヤに来て日本人村を確立した。浪人は国王の警備員として働いて、山田長政という日本人はタイ国境都市の知事の官位を授けられた。日本人は民族や宗教と関わりなく生活できただけでなく、タイ人にとって、その程度までに信頼できた。このように、平和的な仏教は取り込みやすいけど、両国の外交の考え方と政策が違ったので、他の外来宗教と概念についての態度も違った。

c. 宗教の意義と基本的な役割は何だろうか。

さらに、意義と基本の役割は宗教によって違うと思う。神道とタイの民間信仰では環境や自然と祖先の尊敬が大切で、仏教には生き物の苦難を世界から消すこと、自分の内なる平和を果たすことが大事。これらの宗教は人間の条件と関わりがあるので、両国人との関連性がある。一方、キリスト教には一神の言葉と特定の預言者の教えを信じなければいけないから従いにくい。こういうわけで宗教に寛容なタイでも人気にならなかった。今95%のタイ人は仏教を信じていて、七割以上の日本人は神仏習合に従っている。両国のキリスト教の信者数は人口の2%以下しかいない。それに、天皇は歴史的に天照大神の子孫として扱われていた。タイ国王もヒンズー教の神の転生として扱われているけど、「仏教徒であり且つ宗教の保護者」という地位があって、すべての宗教の支持者という責任もある。その上タイは東南アジアで唯一植民地化されていない国だから、仏教を信じているタイ人は自分の国の独立をアジアの宗教で感じられる。日本人の方は神道で自分の文化を提示して、国家威信を感じている。だから、神道と仏教は人に希望を与えただけでなく、愛国的な意味合いもある。

d. 今日の宗教的見方はどう変わったか。

昨今、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたら、日本人は何でも信じていないと答えている人が多いそうだ。日本人の大森夏葉さんによると、日本人と宗教の関係は宗教的じゃなくて、伝統であるので、宗教について無関心な態度がある。例えば、仏教の教えを深く理解できなくても、習慣でお寺に行ける。初詣の時に、神社や寺に行くかは宗教心とは関係なくて、便利さと好きな雰囲気があるかに基づいて決まる。丸岡康之さんと安原正子さんによると、宗教の役割は神の言葉に従うことじゃなくて、安心感を信者に与えることだ。だから「困った時の神頼み」という決まり文句がある。普通強い宗教心がなくても、苦しい時に神に頼む。それに、一神教の西洋宗教は排他的な宗教と扱って、紛争の元と見ている。だから、強い宗教心あるいは排他的な考え方のあるカルト信仰は危ないと思われる。平成七年東京地下鉄サリン事件の後カルトのイメージは特に悪くなった。適合することは日本社会で非常に大切なので、カルトの信者は少数派として色々な差別に直面した。一方、タイの男性は一生に少なくとも一度僧侶になることという習慣がある。その期間で釈迦の教えを勉強したり、毎朝行乞に行ったり、平和な生活と人の謙虚さを習う。学校では釈迦の生活も教えるので、宗教の意義を深く理解できる。数人が伝統で信じているけど、仏の教えによって生活を磨くために、また善人になれるように信じている人も多い。毎年には色々な仏教の祭日を祝って、宗教との関係が自然に深くなる。だからタイ人は困らなくても、宗教を日常生活に組み入れると思う。しかも、タイでもダマカヤという物議をかもした仏教宗派もある。千万人の信者がいるし、疑わしいほどの大きな寄付がもらうし、この宗派はカルトのイメージがあって、人々から批判されている。そうは言っても、伝統的なセラバダ宗派は庶民にはまだいいイメージがあると思う。仏教には生き物の苦難を世界から消すことと自分の内なる平和を果たすことが大切だけど、日本人には宗教に対してこのような感性は存在していないようで、仏教はただ表面的な役割があるかも知れない。

3. 終わりに

結論として、日本とタイの昔の外交的考え方は違うから、宗教についての寛容度と庶民的な態度も違うといういことだ。伝統的な宗教と考え方は今日の先端技術の時代との矛盾を感じていて、人々の態度もまた変わっている。両国でもただ伝統を守るために信じている人が段々増えているけど、タイではまだ仏教を深く理解できて信じている人も多い。仏教は日常生活に組み入れられているので、全国人口の九割ほどが仏教徒だ。それに、一神教とカルト信仰は排他的な特徴があって、カルトと関連のあるテロ事件が起こって、人々には危ないイメージになった。宗教は困った人々に希望、安心感と方向を与えるものだけど、カルトのようにやたらと従うことはよくない。宗教心のバランスも大事だと考える。それにも拘らず、宗教の意義と役割はまだ両方にとって大切で、先祖とつながる方法だ。自分の宗教が一神教でも、多神教でも、無神教でも他の人の宗教心と信念と価値観を受け入れたほうがいいと考える。タイ語には「信じなくても、軽蔑すべきではない」という決まり文句がある。つまり、他の人の信念を信じなくても、その人の考え方と価値観は尊敬するべきだ。

参考文献

Misachi, John. “Major Religions in Thailand.” WorldAtlas, 29 Sept. 2016,

Sousa, Gregory. “Religious Beliefs In Japan.” WorldAtlas, 6 Oct. 2016,

「自然の中 感じる先祖の気配」山折哲雄氏

(タイドキュメンタリー:アユタヤの日本人村)

日本人とのインタービュー:大森夏葉さん、丸岡康之さん、安原正子さんと佐藤真希さん